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奴隷貿易

明けて行く東の空を見ながら、

何時もの通りパイプに火をつけ雲を眺めていました。

青空も遠くに見え、
白い筋状の雲の色が朱色になったと思ったら、
どんどん雲が流れてきて 
現在は明るい空ですが、
暗い厚い雲が流れてきて、 
あっと言う間に覆われてしまいました。


風が無く 空気も湿って重いようで、
早々にベランダの戸を閉め
除湿のエアコンのお世話になっている次第です。
2つ目の台風が接近しているとかで、
午後からは雨模様の予報です。
何故か今年は台風が少ないですが
エルニーニョが終わり 
ラニャーニャ現象?の所為でしょうか

オリンピックも終盤を迎えて日本人も頑張っているようです、

勝っても 負けても選手の涙と、
清清しい言葉には胸を打つものがあります
ひねくれものの私も 
最近は老いた証なのか?素直に聞くことができます。
やはり ボケ老人ですね、

少し古く昨年のお話しなのですが、
フーバー研究所の西教授の講演から
(スタンフォード大学フーヴァー研究所教授西鋭夫)

ではその「西鋭夫」とは何者か?
アメリカ政府の機密文書を読み解き、
GHQ占領政策の世界的権威と言われています。

世界中の天才が集まり100人中3人しか合格しない超難関、
超名門と言われるスタンフォード大学。
その中でも格が違うのがフーヴァー研究所。
元英国首相マーガレット・サッチャーは、
「政治・経済・国際問題に関して世界で最も重要 な研究組織は
 フーヴァー研究所であります」

と評価をしている。

在籍する教授は133名
(うち3名はノーベル経済学賞受賞者)。
前政権時にはそのうち25名が

ホワイトハウスの要職につきアメリカを舵取りする。


西教授はその世界の情報が一手に集まるフーヴァー研究所に

30年以上にもわたり在籍している
唯一の日本人です。
長年の日米アジア研究を通じて、
日米の政財界やシンクタンクに情報源を持ち、
アメリカ政府の機密文書から
GHQ占領政策の研究で世界的な権威です。

フーヴァー研究所から出版された著書は
「日米関係、占領史、日本近代史」を研究している人間で
知らなかったらモグリだと言われるほど。

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CIAのスカウトを蹴り
ラストサムライの異名を持つ

さらにその調査能力が買われ、
博士号を取得して10日後にCIAからスカウトを受け
CIAの一員になれば、
カネも地位も簡単に手に入る。

調査官曰く「東京にはCIAの協力者がかなりいる」
「国会議員にも10人以上」(明確な数字は言わない)

「産業スパイも当然の政策だ」
(注:これらの発言は1976年当時のものである)

そしてCIAになれば毎日が大冒険だと...誘ってきた。

しかし、
CIAになるという事は国籍を変えなければいけない。

その瞬間、自分が日本人だという事を痛烈に自覚した。
そして「私が日本を裏切るれるなら、
将来、アメリカも裏切る。
CIAはそんな人間を雇うべきではない」と断り、
CIAの調査官が感激し、
リアル・ラスト・サムライとの異名を持つ。
(※西鋭夫著 「日米魂力戦 中央公論新社」より)


2015年6月30日、

東京ビックサイトにて

フーヴァーレポートの会員600名以上の方に
「平成占領70年」というテーマで講演会を開催。

日本人の誇りを取り戻すべく、
数ヶ月に一度のペースで数百名規模の講演を開催している。
西教授の熱い講演を聴くために、
遠方から足を運ぶ方も多数おり、

講演は毎回好評を博している。


1941年大阪生まれ。

関西学院大学文学部卒業後、

ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士)
J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後
1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。


それより現在まで、
スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

現在日本が抱えている多くの問題は戦後の占領政策、

中でもプレスコードと
洗脳政策が大きく影響しています。
戦後教育の中でも歴史に於いては 
歴史学者の不勉強と阿りで
通史と言われる物が幅をきかし
アカデミズムの退廃は現在にも大きな影を落としています、

いわんや 
そんな先生に教わって大学を出た輩の歴史観は 
よく言う自虐史観処か、
日本を貶め滅亡させるような 
奇天烈な歴史観でメデイアやTV局の司会者等が
嘘だらけを発信しています。

通史に対する疑問を少しでも持っていただきたくて 
以下の疑問点を抜書きしました、 

お考え下さい。

以下に講演目録より一部を引用します。

日本の教科書に書かれている、
幕末から明治の内容をざっとまとめてみました。
これを読んで、不思議に思うことはありませんか?

日本は鎖国していた。

唯一オランダと出島で交易していた。

ペリー来航後、
アメリカから強い脅威を感じた幕府は、外国に屈服し、
不平等条約を結んだ。
弱腰な幕府の勝手な対応に批判が巻き起こり、
朝廷を敬い(尊王)、外敵を撃つ(攘夷)
尊王攘夷運動が起きた。

その運動に対して、幕府の井伊直弼は、
吉田松陰などの志し高い人々を激しく弾圧し、
処刑した(安政の大獄)

吉田松陰の松下村塾では尊王攘夷が説かれ、
その弟子である高杉晋作、木戸孝允、
伊藤博文などは維新や明治新政府で活躍した。

坂本龍馬を始めとする志士たちの働きで、
薩長同盟が結ばれ、
幕府は敗れ大政奉還へ。

新しい明治政府は、西欧に習って文明開化、
富国強兵を進めていった。
こんな風に学校で習ったな・・・
などと思ったのではないでしょうか?

この内容は、

今も子どもたちが学校で学んでいることとほとんど同じです。

ここで、少し砕いて考えてみましょう。
この内容は簡単に言ってしまえば、
「幕府は悪者で劣っていた。
 偉いヒーローが現れて幕府を倒し新しい日本を作ってくれた」
 と言えます。

しかし待ってください。幕府が築いた時代は、
そんなに腐敗したものだったのでしょうか?

江戸時代は政治システムが整い、
戦争がない平和な時代が250年も続きました。
江戸時代の前後を考えれば、
その前は戦国時代、
明治時代からは数々の戦争を経験しています。

この時代は日本にとって、

貴重な平和の時代だったのです。

また、並外れた好奇心と勤勉さを持った日本人は、
オランダから仕入れた西洋技術に磨きをかけ、
その技術力は当時世界トップクラスでした。
江戸の町が清潔で機能的だったことも有名です。

上下水道が整い、
無駄のないリサイクル社会でした。

「武士道」を含む

日本文化が大きく開花したのもこの時期です。

この日本の繁栄を育んだのが、

江戸幕府の時代です。
それでも教科書通り

「幕府は悪者で劣っていた」と言えるのでしょうか?


今度は逆に、

この「ヒーロー」を含めた別の視点から見ると、
明治維新には多くの不可解な謎があります。
これを見ても、教科書の歴史を信じますか?

例えば・・・
維新のヒーロー坂本龍馬に誰がカネを出したのか?

海援隊という
5?60人の働いてない男たち を養うカネは
どこからでてきたのか?
大量の武器を買うカネはどこからでてきたのか?

(今の価値で50億円とも言われます※日本銀行高知支店のHPより)


軍艦を買う金は?
全国各地に出張しまくるカネは?
一体、誰が何の目的でそのカネをだしたのか?

明治維新はロシア革命と一緒で 

ユダヤマフィアの陰謀で実現した?

100万人の幕府軍は簡単に圧勝できたのに、

なぜ突然、戦闘を放棄したのか?

日本中の刺客から狙われていた坂本龍馬、
一体だれが殺したのか?
なぜ犯人が分からなかったのか?
世界の4分の1を植民地にし、
日本の目と鼻の先まで迫っていたイギリス。
中国ではアヘンをばらまき中毒者だらけにすることで
骨抜きにして侵略していったのに対し、
なぜ、同じ手を次の標的の日本に使わなかったのか?

「攘夷!攘夷!」と叫び、
外国人の追い出し活動に走り回った
伊藤博文などの長州藩の志士。
それがなぜ、
明治維新前に突然手のひらを返して
敵国であるイギリスに留学したのか?

現在も世界最大手のイギリス系金融グループの銀行が、
明治維新前に既に横浜に支店を開設していたのはなぜか?

ここまで見ても、
誰かが裏でジワジワと手を回していたことに気づくでしょう。

それを隠すためには、
ウソの歴史を作り上げることが必要だったのです。
明治維新から150年経った今になっても、
子どもたちや私たちに
ウソの歴史を教えなければならないほどの、
隠したい真実の歴史とはどんなものだったのでしょうか?
この講演録は、
われわれが知っている美しい、
憧れの明治維新とは全く違った、
現実の姿を教えてくれます。

聞き終わった後には、
きっとあなたの「明治維新のイメージ」は
全く変わっているでしょう。
それだけでなく、
その後の歴史の見方そのものが変わるかもしれません。
その後の歴史も
全く違った視点から見ることができるようになるでしょう。

西鋭夫教授曰く、

われわれが知っている明治維新は
その時の御用学者が書いた歴史で、
真実とは違うようです。
ぜひこの講演録を聞いてあなた自身で判断してください。
引用終わり


次いでですからお教えしますが、
坂本龍馬はフリーメーソンの武器商人
トーマス・グラバーの使用人兼弟子でした。

又出てきましたね、フリーメーソンが、
徳川幕府にはフランス政府派遣の軍人などが、
顧問として採用されていましたので
英国の東インド会社(ジャーデイン・マセソン社)は 
幕府には武器を売りませんでした。

代わりに武器(アーム・ストロング砲)は 
薩摩、長州に売られ
その後の明治維新の戦いの帰趨を決めました。


今日はフリーメーソンのお話ではなく 
オリンピックのサッカー初戦で日本が負けた

ナイジェリアのボコハラムが
又無茶な事言ってるようです。

2014年4月に学校を襲い
少女218名を誘拐しました。
一人は逃げ出してきましたが 

未だ200名以上の女学生が人質になっています。

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ボコハラムはイスラミック・グループと称していますが 
特定のグループには参加せず
ナイジエリア北東部の地下資源などの利権を巡り 
テロ攻撃を日常化しています。
国土は荒れ放題になり
 
衛星写真で見ても植生が変わってしまっています。

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Satellite image of the village of Doro Baga,
or Doro Gowon,
in north-eastern Nigeria taken on January 2, 2015.
Image shows an example of the densely packed structures
and tree cover.Satellite image 2, taken on January 7, 2015,
shows almost all of the structures razed.

The red areas indicate healthy vegetatio

そんなボコハラムが少女達を 奴隷として売り飛すと
政府や国際社会を脅しています。

男の子共や大人は 兵士として使うそうです。
奴隷(SLAVERY)スレイブ、
奴隷を英語では“Slave”と言うが、

これは中東欧のスラブ語での
「スラブ(言語)」を語源とします

ギリシアとの戦争に負けた
スラブ人の捕虜が奴隷とされたために、
ギリシャ語で「スラブ」が「奴隷」の意味となり、
そこからローマ帝国のラテン語経由で、
ヨーロッパの諸言語に広まりました。


そして 以前紹介しました 
サンパウロの日系新聞の記者 
深沢正雪記者の投稿より引用します。

日本人奴隷の謎を追って  サンパウロ 日本語新聞
     
日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(1)
=亜国に残る裁判書類=1596年に売られた日本人

「南米日本人発祥の地」は
一八〇三年にロシア船に乗ってフロリアノーポリス港に到着した
若宮丸の四人――とのイメージが強いが、
史実をたどると、どうやらそうではないようだ。
それよりも遙か以前、

今から四百年以上も前に南米の地を踏んだ
日本人の記録が残されている。

日本とブラジルとの歴史的関わりを考える上で、
ポルトガル(中世「南蛮」と称された)は欠かせない国だ。
この三国関係を軸に、改めて日伯の歴史を俯瞰し、
カトリック布教と大航海時代という背景の中で、
日本人が四百年前にブラジルに来ていた可能性を検証してみた。
将来を見通すには、その分、過去を知る必要がある。
百年の歴史から日系社会の将来を考えるより、
より長い歴史の中から日伯関係を俯瞰することで、
日系社会の二百年後、三百年後を構想する

アイデアの一助にならないだろうか。


博覧強記でしられた故中隅哲郎さんの「ブラジル学入門」
(無明舎、一九九四年、以下『入門』と略)を読み直して、
「(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、
戦火に負われた多くの難民、貧民が
 ポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった」
(百六十四頁)との記述に目が引かれた。


驚くことに、「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、
日本人奴隷を売買した公正証書がのこされている」(百六十五頁)
という具体的な内容も記されている。


さっそく『アルゼンチン日本人移民史』
(第一巻戦前編、在亜日系団体連合会、〇二年)
を調べてみると、確かにある。

同国の古都コルドバ市の歴史古文書館で発見された


最初の書類では、
一五九六年七月六日、日本人青年が奴隷として、
奴隷商人ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアから
ミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラスという神父に

八百ペソで売られたことになっている。

その日本人青年の属性として

「日本州出身の日本人種、フランシスコ・ハポン(21歳)、
 戦利品(捕虜)で担保なし、人頭税なしの奴隷を八百ペソで売る」
 (同移民史十八頁)とある。
残念ながら、日本名は記されていない。

 

さらに、『日本移民発祥の地コルドバ』
 (副題「アルゼンチン・コルドバ州日本人百十年史」、
大城徹三、一九九七年、以下『コルドバ』と略)によれば、
日本人青年は一五九七年三月四日付けで、
「私は奴隷として売買される謂(い)われはない。
従って自由を要求するものである」と起訴したとある。

奴隷として売られてから二年後、

一五九八年十一月三日に裁判に勝訴し、
無事、自由の身になった。

裁判所は、
代金の八百ペソを奴隷商人から神父が取りもどす権限を与えている。
「この日本青年は心身共に強健で才能に富んだ傑人と思われ、

それなりに他の奴隷に較べて三、四倍の高値で買い取られている」
 (『コルドバ』十六頁)と考察する。

奴隷として売られた人間が、
「奴隷ではない」と裁判を起こすこと自体、
当時は珍しいだろう。

これが亜国初の日本人公式記録であり、
それゆえコルドバが「南米日本人発祥の地」だという。 
四百十三年前の事実が発掘された発端は、

今から四十年ほど前に、
日系二世も含めた大学生の研究グループが、
同古文書館から奴隷売買証書を発見したことにある。
これが後に、コルドバ大学から
『一五八八年から一六一〇年代迄のコルドバに於ける奴隷売買の状態』
(カルロス・アサドゥリアン著、一九六五年)として出版された。

さらに、八二年に大城氏の依頼により
コルドバ国立大学の図書館から裁判書類が発見され、
当時の日系社会で大きな話題となったという。

 
織田信長や豊臣秀吉が天下人になっていた安土桃山時代に、
いったい誰がアルゼンチンまで日本人を連れてきたのか。

これは南米の日本人移民前史における最大の謎だ。
今ですら、南米までくる日本人は少ない。
まして当時は、どのような経緯で渡ってきたのだろうか。


 
日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(2)
=「小家畜か駄獣のように」=手足に鎖、舟底につながれ 
一五九六年にアルゼンチンで奴隷売買された日本人青年に関し、

大城徹三氏は著書『コルドバ』で、
かなり踏みこんだ分析をしている。

イビウナ市在住の香山榮一さんから送ってもらい、

ようやく読むことができた。

この本には「さてフランシスコ・ハポンという日本青年は、

当時日本との貿易が頻繁に行われていた
南蛮人(ポルトガル人)によって
連れられてきたことが濃厚に示されている。
また正式なスペインの航路を通らず、
ブエノス・アイレス港に入ってきたと推測できる。
ということはスペイン国法に照らし、

奴隷に処せられる条件になかった」(十五頁)とある。

 
これは実に刺激的な説だ。

なぜなら、
ポルトガル商人の手によってお隣まで来ていたなら、
もっと近い、
南米唯一のポルトガル植民地だった伯国にも
日本人奴隷が売られてきていても何ら不思議はない。 
むしろブラジルにこそ多く来ていた、

と考える方が自然だろう。

 

日本人奴隷に関し、
前述の中隅さんは『ブラジル学入門』の中で、
「日本側の記録がないのでわからぬが、
 ポルトガルにはいろいろな記録が断片的に残されている」
(百六十四頁)とし、
外交官でラテン・アメリカ協会理事長だった
井沢実さんの『大航海夜話』(岩波書店、七七年)から
次の引用を紹介している。

 

「インドのノーバ・ゴア発行の
『東洋ポルトガル古記録』の中に日本人奴隷関係で、
 まだ訳されていない重要文書が含まれている。

ゴアにはポルトガル人の数より

日本人奴隷の数の方がより多いなどということはショッキングである」

中隅さんは書き進め、

「日本人奴隷は男よりも女が好まれた。
行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、
ポルトガル本国にも相当数入っている」(前同)と記す。

『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』

(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、


一九九五年、百五十八~百六十頁)には、

次のような記述もある。

「一五八二年(天正十年)ローマに派遣された有名な

少年使節団の四人も、

世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている

事実を目撃して驚愕している。

『我が旅行の先々で、
 売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に
 (同胞の日本人を)手放す我が民族への
  激しい念に燃え立たざるを得なかった』

『全くだ。
 実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら
 童男・童女が、
 世界中のあれほど様々な地域へ
 あんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、
 みじめな賤業に就くのを見て、
 憐憫の情を催さない者があろうか』といったやりとりが、
 使節団の会話録に残されている」

 

少年使節団(一五八二―一五九〇年)が
イエズス会員に伴われて欧州に出発したのは、
「本能寺の変」と同じ年だ。

日本にいたポルトガル人宣教師は、

同胞商人による日本人奴隷売買をひどく嫌がり、

本国に取締を要請し、
一五七〇年九月二十日に
ドン・セバスチォン王は禁止令を出したが効き目はなかった。

 

「この現象を嘆いて、
 ポルトガルの碩学、アントニオ・ヴェイラはこう言っている。
『法律というものはあっても、
 違反者は絶えないものである。
例えば日本人を奴隷にすることを禁止する
法律が制定されているにも拘わらず、
ポルトガル国内には多数の日本人奴隷の存在する事実によって、
これを証することが出来る』」
   (『入門』百六十五頁)と中隅さんは例証する。

 
禁止令の二十六年後にアルゼンチンで奴隷売買された
フランシスコ・ハポンの存在がまさにそれを実証している。

現在の伯国に通じる法律軽視の気風は、

すでにこの当時の宗主国にはあった。

「秀吉の側近だった大村由己(ゆうこ)は

『日本人男女数百名の多数を黒船に買取り、

 手足に鎖をつけて舟底に追い込み、
 地獄の責苦をあたえ………』と憤慨して書いているから、
一船当たり、二百名位は積んだらしい」(前同)と記す。


まるでサルバドールの奴隷市場で売り買いされた

黒人と寸分変わらない様子で、

日本人も扱われた歴史がある。
このこと自体、一般にはあまり知られていない。
次回に続きます・・・・。
長崎の古い教会群が
「世界遺産」に登録を申請することが決まったようですが
キリスト教徒と宣教師、
そしてキリスト教徒の大名が行った日本人奴隷貿易は
キリスト教受難史観により 
無視されています。

十数年前から日本人奴隷貿易について 
拙ブログで発信してきましたが
最近漸く
ネット上に日本人奴隷貿易についての
考察が載るように成って来た事は喜ばしい事ですが
「世界遺産」登録申請の前に
通史に疑問を持ち 
せめて 
「日本人奴隷貿易発祥の地」の慰霊碑を立てるべきと考え
今一度 深沢記者が推敲し 
再度ネットに載せた記事を紹介したわけです、
次回又続を載せます。
                  

奴隷じゃないよ~、あたしだよ。

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by monk-1 | 2016-08-16 12:23 | Comments(0)

森羅万象 気になることを記します